第1回
平成14年の晩秋から翌15年の新春にかけて、ふたつの江の島展望灯台が並ぶシーンが見られました。これは、灯台の灯を絶やすことなく伝承させるために、新展望灯台の灯がともるまでの間、旧展望灯台の存在が欠かせなかったからであります。
▲建て替え期間中に限り見られた新旧展望台のツーショット
この旧展望灯台は、藤沢市海洋総合博物館建設計画の一環として造園された江の島植物園の開園に伴い、公益的観光施設の充実を図るべく当社が建設した日本初の民間灯台で、この竣工をもって観光事業参入の第一歩としました。当時の当社は、江ノ島電気鉄道の社名をあえて江ノ島鎌倉観光に変更(昭和24年8月1日)するなど、総合的な観光運輸会社への脱却を図ろうとしていた、まさに真只中と言ってよく、沿線随一の景勝地江の島の活性化を最重点課題としていました。こうした背景のもとで展望灯台建設の契機となったのが、世田谷区内において落下傘塔として使用されていた塔の移設転用が見込めたことで、当社は、所有者である読売新聞社よりこれを譲り受け、展望設備と航路標識を付設し昭和26年3月25日にオープンさせました。なお展望灯台が、オープン当時に「読売平和塔」と呼ばれていたのは、戦後間もないこともあって永続的な平和が祈念されたのに加え、読売新聞社と宣伝に関するバーター契約を結んでいたからであります。
〔当社梶浦浩二郎社長の「・・・平和塔は平和国家日本の光となろう」という挨拶で幕を開け、修祓・テープカットを経た平和塔に、元松竹少女歌劇団スター水の江滝子氏を先頭に登りはじめた千余名全員がファンファーレを合図に万歳三唱、同時にクス球が割れ五色のテープと紙吹雪が舞い式典は最高潮に達した。さらに日没に合わせた5時57分に、園内で様々なアトラクションを楽しんでいた人々の目が一斉に平和塔の最上階に向けられ、光達距離約46?に及ぶ灯台が点灯、文字どおり平和の光が輝いた。〕 これは、開業日の様子を当時の資料や新聞記事を元に再現したものですが、その祝賀ムードからは、平和社会と行楽気運の定着を願う人々の期待がうかがえます。 そして、平和塔が展望灯台と呼ばれるようになった昭和30年代には、江ノ島大橋の開通に伴い自動車の乗り入れが可能になったことや江ノ島エスカーの開通に加え、大島・熱海航路が開設されたことなどにより、行楽地として江の島の人気は急上昇し、展望灯台も対岸から見る景観に欠かせぬ存在としてシンボル化されていきました。 |
『江ノ電の100年』は、開業100周年記念事業の一環として平成14年9月に発刊された江ノ島電鉄のオフィシャル史料です。400ページにわたるその構成内容は、鉄道以外の事業にも焦点をあてることにより社史としての平準化をはかり、新たに発掘された史料や貴重な写真も多数収録されております。 |